天体






自分に果てはあっても、空に果てはない。
人間が空へ、宇宙へと旅立って行くのは、きっと果て無きものに憧れを
抱いているからかもしれない。



藤真は目の前の天井をぼんやりと見ていた。じんわりと背中に汗をかく。
冷房の入っていない部屋は暑さと湿気が篭もっている。窓を開ければ蝉の
声が体感温度を上げる。冷房を入れるか、窓を開けるか、部屋に辿りついた
ときはそれすら億劫で藤真はユニフォームやバスケットシューズやらが
入ったバッグを放り投げ、その身をベッドに沈めたのだ。
負けた。
天井をスクリーンにしたかのように、藤真の目の前で湘北との試合が繰り
広げられる。ベンチで見ていた試合、コートで見ていた試合。始まりを
告げる笛はベンチで聞いた。終わりを告げる笛はコートで聞いた。長く
吹かれた笛は自分の夏の終わりをも告げていた。
負けたんだ。
実感するまで、時間にすればほんの数秒だったけれど、藤真にとっては
長い時間が必要だった。息を止め、吐き出す、きっとそれくらいの時間。
それくらいの時間だったというのに、藤真の何かがぎゅっとその数秒に
凝縮されて、それは涙として表れた。
終わった。
監督として、キャプテンとして、試合後のミーティングを行い、夏で引退
しないことを藤真は告げた。花形たちもそれに同意した。終わりを信じたく
なかった、だから出した決断かもしれなかった。自分の決断に他のメンバー
を巻き込みたくはなかったが、自分にはそれしか選択肢がなくて。
終わったんだ。
けれど、終わった事実だけは認めざるを得なくて、とても苦しかった。
どんなにいい経過があろうと、結果が全ての世界で生きることは、終わりを
いずれは外的にも内的にも迎えなければいけないのだとわかっている。
迎えたくないと足掻いたとしても。



俺は、ここまで、ってことなのかな。



珍しく弱気なことを藤真は考えた。
誰に敵わないと思ったことはない。上へ上へと己を向かわせてきたつもり
だった。限りなどないと。上を目指せば目指すだけ、自分も伸びて行くと。
そう信じて、そう確信して、今までプレーしてきたのだ。けれど結果は、
現実は非情なもので、結局は神奈川の双璧と互いに謳われる牧と対戦する
こともないまま、藤真の夏は終わったのだ。
背中を汗がつたう。藤真は目を瞑った。限界を感じたくはない。ここまで
などと思いたくもない。ここからだと、自分の限りはここなんかじゃない
と、誰か俺を叱咤してくれ……誰かを頼りにしたことなどなかったのに、
負けたことは自分をこんなにも弱気にするのかと藤真は自分が情けなく
なった。最後の夏だからか、と自嘲気味に溜息を吐く。
「健司ー」
下から母親の声がした。
「何?」
ベッドから身を起こすことなく、藤真は階下に声をかける。
「後輩の子が来てるわよー」
後輩?
藤真は目を開き、少し考え込んだ。後輩って誰だ?伊藤か?俺、何か
忘れ物でもしたか?藤真は首を傾げながら身体を起こすと部屋から出た。
「やだ、着替えもしないで何してたの」
と階段を途中まで登ってきていた母親が笑う。
「誰?」
「お母さん、知らない子。だって健司の学校のジャージじゃないもの」
「は?」
母親は階段を降りながら、玄関で待つ『後輩』を藤真に示す。母親の後ろ
から藤真は玄関を覗き込んだ。
「……清田!?」
「あ、ども……ッス」
そこには海南の清田信長の姿があった。




ごゆっくり、と母親は藤真の部屋に冷たい麦茶と冷えたスイカを置いた。
小さなテーブルの脇に座った清田は落ち着きなくキョロキョロと部屋を
見ている。ベッドに腰掛け、その様を藤真はとりあえず見ていた。
「で?海南のお前が俺に何の用だ?」
「用?あ、そうッスよね、用」
はっと藤真の方を向き、清田はその居住まいを正す。胡座をかいていた
足を正座に直し、ふぅと息を吐くと真っ直ぐに藤真を見た。
「今日の試合、俺、見てました」
「あぁ来てたもんな、お前ら」
「藤真さん、見てて、俺」
「何」
翔陽と海南は何度か練習試合をしていたから、藤真と清田は面識はあった。
けれどまともに話したことがあるかと言えば全くない。藤真は牧や他の
3年と話していることが当然多かったのだから。だから今清田が自分の家に
訪れた理由は全くわからなかった。家の場所は牧あたりが教えたのかも
しれないが……
「終わり、感じてたらヤだなと思って来ました」
「は!?」
藤真は自分を真っ直ぐ見ている清田の視線を見返した。
「スンマセン!生意気言って!でも」
清田は藤真の視線にも動じずに言い切った。
「藤真さん見て、すげぇ俺、終わりを感じちゃって、そんなんじゃダメ
っスよって言いたくなって、藤真さんちまで来たんス」
そして長い髪をガシガシとかいた。
「お前……何言ってんの……」
藤真は冷水を浴びたような気持ちになった。自分が終わりを感じていた、
それは本当だった。限界と終わりと、それを感じたらひどく寂しくて、
前へもう進めない、前を向けない、それくらいの気持ちになっていたのだ。
引退しないという決断で、どうにかその気持ちがこれ以上大きくならない
ように押さえ込んで。
それを、そんな真っ直ぐな視線で言い切るなんて。
「俺の気のせいだったら、藤真さん、すっげぇ気分悪いと思うんスけど」
図星だから気分悪いんだ、バカと藤真は思いながら、清田の言葉を聞いた。
「そりゃ勝ち負けはあって当然で……まして藤真さんは3年だし、今日、
負けて、夏が終わりってのは、わかってる、つもりなんスけど」
常勝海南にいるくせに、何をわかっていってるんだと藤真は心で悪態を吐く。
ましてや1年。これからまだ先があるじゃないか。
「だけど、そんだけじゃないし、まだ、終わりじゃあないって俺は思う」
「終わりは終わりだろ」
藤真は言葉を挟んだ。
「清田、お前、何を言いたいの?負けたことに変わりはないだろう?
終わったことに変わりはないだろう?」
「それはそうッスよ。でも、藤真さんは今日負けたことだけじゃない
終わりを感じてんじゃないかって俺は思ったから」
落ち着いた藤真の口調に比べると、30度も50度も高い温度で清田は言う。
「ここまでだ、これでもう全部終わりだって、そう思ってんじゃないかって」
藤真は心を見抜かれた気がして清田から視線を外した。テーブルに置かれた
グラスに手を伸ばし、指先に表面についた水滴の冷たさを感じる。
「終わりなんかじゃ、ナイっすよ……」
ただ海南の1年としか認識のなかった清田。おそらくは自分も清田の中で
翔陽の3年(監督やキャプテンという肩書きはあったろうが)としか認識は
ないのだろうと思っていたのに、その清田の口から飛び出す言葉は自分が
感じていたことで。何がわかると思っても、それが、どうしてわかっている
んだという疑問に摩り替わる。
「終わり、なんて思っちゃダメっすよ……」
清田はまるで自分の先輩が卒業していくかのように涙を零した。
「すんません……俺、涙腺脆くて」
「いいよ、別に」
藤真は立ち上がると机の脇の本棚の一角に置かれたティッシュの箱を手にし、
清田へと渡した。清田はそれを受け取りながら、その視線は本棚の別の一角を
見ている。
「何?」
本棚に藤真が振り返ると、清田の視線の先には、
「天球儀」
があった。



清田は立ち上がり、天球儀の方へと向かう。手を伸ばし、少し埃のかぶった
それを手に取り、テーブルの上に置いた。
「コレ、空の星の配置っすよね」
「あぁ……小学生のとき、買ってもらったんだ。星、見るの好きで」
「俺も好きっス」
「お前がぁ?」
嘘つくなと笑った藤真を見て、清田はホッとしたような顔を見せる。それに
気付いた藤真はまた表情をいつものポーカーフェイスに戻した。
「清田、」
「藤真さん、星ってココにあるのだけッスか?」
「え?……んなわけないだろ。俺らが知らない星なんていくらでもある。
見つけてない星なんか腐るほどあんだろーが」
「それと一緒ですよ」
清田はティッシュを1枚、2枚と取ると、薄く汚れた天球儀を拭く。白が灰色に
変わる代わりに、天球儀はその深夜の空の色にも似た黒に近い藍色を浮かばせる。
そこに散らばる星たち。それは地球に生きる自分たちが、辛うじて知っている星。
宇宙には知るよりもずっとずっと多くの星が輝いている。
自分たちが、知らないだけで。
「星なんて、きっと全部見つけることなんてできないです。全部ここに書き込む
ことなんてできないと思います。それは、きっとバスケも一緒で、一緒で」
藤真は言葉を一生懸命紡ごうとする清田が、自分に伝えようとすることを、今の
言葉で理解した。
何を言いたいのか、何を伝えたいのか、俺に、どうして欲しいのか。
「あーもう、俺、何言ってるんスかね。もーわけわかんね」
少しばかり綺麗になった天球儀をクルクルと回転させると、今度は自分の髪の毛を
ワシワシと清田はかいた。
「……ありがとう、清田」
「は?」
「ありがとうって言ってんだ。ったく、お前さ、敵に塩送るようなマネして
どーすんだよ」
藤真はゆっくりと回転する天球儀を止め、不敵に清田に笑いかけた。
「俺は終わんねーよ。お前が俺を止めない限り、お前らに冬はないぜ」
夏の終わりを迎え、それしかない選択肢を選んだ。
それしかないと思っていたから。でも、それは違う。その先へ進むための『終わり』。
ここまでなんて言葉は、きっと似合わない。
「藤真さん、それ、どーいう意味スか……?」
責任取れよ、清田。俺をよみがえらせたのはお前だから。







果て無きものへの憧れを俺は一生抱き続けるのだろう。
叶わなくとも、叶えるために必死に。
幾度もの終わりを超え、終わりのために生きるのだとしても。
空に限界は、ない。




















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